天美巧ヒストリー | 天ぷら 天美巧

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2019 / 02 / 12

天美巧ヒストリー

 

天美巧は、福田様からお借りした古民家を改装したものです。

 

【福田家について】

福田家は名古屋城築城の際のいわゆる清洲越しに、

この地に移転してきた商人が先祖であると伝えられています

古くから乾物業を生業として明治時代から終戦までは東京日本橋 、

大阪に支店を幾つか有して販路を拡げました

その間、清洲銀行も設立し幅広く事業を展開する。

屋号は「山ウ商店」で当主は代々「卯助」を襲名

家系図や資料等が戦災で焼失したが、幸い知多大野の別邸に保存して

あった過去帳より現在福田家の第十三代当主である事が確認できます

また浄土真宗本願寺においては京都の本山及び名古屋別院の門徒総代に歴代任命され、

寺院を護持するため寄進を続けながら地域に貢献し勤しんできました

 

こちらは「山ウ商店」の文字が記載されています

 

 

【福田家の建物】

この建物がある場所には、尾張藩の御用商人であった川伊藤家と

同様の建物形態の福田家  町屋(乾物問屋を生業とする)がありました

名古屋城が戦災で焼失した1945年(昭和20年)5月14日に

四間道側の現存する裏蔵を残し、表蔵(堀川側川沿い)、

旧店舗及び旧母屋(町家)は家系図その他資料と共に焼け落ちました

二棟の裏蔵の扉、窓の僅かな隙間にまで味噌を塗り込んで、

防火対策を施したので蔵の焼失は免れました

其れらの蔵の繋ぎ目部分は、戦火にて母屋が全焼した炎で柱が焦げており、

その火災の凄まじさを今日まで物語っています

掘り返すと焼け落ちた屋根瓦が多数出るこの焼跡に、終戦から8年後の1953年(昭和28年)に、

知多大野の別宅(数寄屋造の母屋、洋館)住まいだった11代福田家当主卯助が

息子夫婦の為に住居を建てました

その後   1981年(昭和56年)に知多大野の別宅を閉じ そこで使用していた襖絵及び障子、

簾戸(スド)をこの家で使っていました

この度2018年(平成30年)に「天美巧」にて大野別宅の上記の建具も含め、

建物の床の間、欄間等(二階は殆どがそのまま利用)も使用しています

 

こちら二階のお写真です

とっても歴史ある大切な古民家をお借りさせてもらっているので、

日々感謝して使わさせていただいております。